御祭神
誉田別尊(応神天皇)
比売大神
息長帯比売命(神功皇后)
以上併せて八幡大神と尊称する。
相殿
天照大神、食保神、大己貴神、少名彦命、火産霊神、白山比売命
由緒
当社は養和元年(1181)神護寺文覚上人が京都、石清水八幡宮より勧請し創建しました。
その由縁は、文覚上人が源頼朝の為に源氏再興を発願し、治承年間(1177〜1180)上総国(千葉)鹿野山に参篭しました。源氏氏神と称え奉る石清水八幡の神に祈念をし、源氏再興の本願が叶えられれば勝地を探し求め八幡の一社を建立、末永く祭祀をせんと誓いをたてました。
養和元年大願成就の前兆を感得し、社殿建立の勝地を求め、各地遍歴の末に鹿野山に相対する浦賀西岸の現在地に石清水八幡宮の神を祭祀する社宇を建立し、文治2年(1186)神の霊験により源氏再興の大願が叶うたところから、叶大明神と称するようになりました。
例祭日
9月15日(当日祭)
9月第2週の土、日 宵宮祭、例祭、付祭
(慣例、正しくは6月の例祭会議で決定)
文覚上人
当社は養和元年、文覚上人が山城国の石清水八幡宮を勧請創立した。
石清水八幡宮は、貞観元年(858)の夏、大安寺の僧行教が、九州宇佐神宮に九十日間の参籠中に、「我王城近くに遷座して、皇室を守護し国家安泰をなさしめん、移らんと欲する処は石清水男山の峯」と云う八幡の神託を受け、この事を行教は天皇に奏請し清和天皇は八幡の神を奉安した。以来、皇室を始め公家の厚い崇敬を受け、殊に、清和天皇の流れをくむ、源氏ーとりわけ源頼義・義家は殊に八幡の神を敬い、義家はこの石清水八幡宮で元服の式を挙げ、八幡太郎義家と称するに至った。かくして、後に八幡の神は源氏の氏神となるのだが、文覚上人がこの石清水八幡の神を、源氏再興の為に祈念し、本願成就を願ったと云う理由は、以上のように、以前から八幡の神と源氏の崇敬と云う結びつきがあったからに外ならない。
社伝によれば文覚上人は、後白河法皇に対して高雄山神護寺再興のための寄進を強要した罪によって、伊豆国に遠流の刑に処せられ、伊豆在住の間、平治の乱で破れ捕らえられ、そして、伊豆に流刑となり韮山蛭小島に居た源頼朝の許を訪れ、頼朝に源氏再興を鼓舞した。
源氏再興叶い、石清水八幡宮より勧請創立したのだが、この神社の管理のための別当として、文覚上人のあと、代々真言宗古義派(高野山系)の僧侶が置かれた。
別当 感応院
既述した如く、叶神社は文覚上人によって、山城国石清水八幡の神を勧請した当初から、僧侶とのかゝわりが深く、つまりは仏教との因縁を神社創建以来持っていたのであった。
平安初期以来、仏教面から説かれた本地垂迹(仏を本地とし、日本の神を仏の垂迹の顕れとする)の思想に基く、神仏融合は一千年近く、日本の宗教界の主流を形成して来た事は、周く知られているが、殊に、平安・鎌倉の世は、これが盛んであったと云えよう。
叶神社とて例外ではなく、むしろ、文覚上人勧請と云ういきさつからも、養和元年創建以来明治元年迄、六百八十七年間にわたって、叶神社の管理・運営及び祭祀まで、真言宗(古義派)の僧侶によって、司祭・維持がなされてきたのであった。この僧侶・寺院を別当(別当寺)と呼ぶ。(但、鶴岡八幡宮は供僧の上に、別当が存在していた。)
別当とは、そもそもは大寺院の寺務統轄の僧官の名称で、天平勝宝四年(七五二)五月、良弁上人を東大寺別当に補任したのが、初見であるが、ここに述べる別当とは、正しくは、叶神社の別当寺と云う意味である。しかも、この別当寺の僧侶が神官の役割をも果して来たのである。
叶神社の別当寺は、山号虚空山、院号感応院、寺号西栄寺と号し、古義真言宗で、江戸時代は逗子の延命寺(黄雲山地蔵院、古義真言宗、高野山金剛峯寺末、行基創建の伝承を持つ)の末寺で、本尊不動明王であったが、古は、文覚上人自刻の虚空蔵菩薩であったと伝えている。伝承によれば、文覚上人が房総の地より当地に来航の海上で、虚空に雲霧現れ、それに霊気を覚え、その雲霧の流れ動く相を観じ、浦賀西岸の嵐山(叶神社裏山)こそ、神明のしろしめす聖地と定め、草庵を結び、石清水八幡の神を歓請し、源頼朝の源家再興を祈祷したと云う。霊気を帯びたる雲霧の虚空出現の奇瑞と云い、源家再興祈願の效験と云い、この神の感応著しく、これによって、虚空山感応院と云う山・院号を名称としたと称す。そして、嵐山の草庵跡を、文覚畑とか虚空蔵屋敷と云う名称で現在に伝えている。なお、『三浦古尋録』に「大塚小塚ヱ行道筋二平等寺崎ト云所有、是ハ文覚ノ旧室平等寺ノ跡ナリト云」と云う記事があるが、これについては委細未評である。
さて、この感応院の位置は、社殿と社務所の中間にあって、宮下の道路に面して表門(古くは四脚門であった)があり、客殿は、間口七間(一二米六十糎)、奥行き七間の正方形をなし、玄関を入って正面奥の仏間に本尊不動明王を安置していた。この為、表門から宮下の道路を突きって、海岸に出る小路が、不動横町と俗称されていたと云う。別当僧の住宅は、現在の社務所(住僧の住宅を改造して社務所としたもので、関東大震災前迄の建物であった)の位置にあって、間口三間半(六米三十糎)奥行き八間(十四米四十糎)の長方形の建物であった。
歴代住職は、初代を開基文覚上人として、『感応院累代帰天釈明聯記』(後掲)によれば、法印玉応まで、つまり、養和元年(一一八一)より明治元年(一八六八)の間、六百八十七年間、六十九代に及ぶが、二十二代・四十五代・五十五代から六十五代、それに六十七代に住職の名は空白になっている。又、二十四代法印宥快・三十一代法印慶辨・四十四代阿闍梨恵果・五十一代権大僧都義龍・六十六代法印実如の五人の住職の歿年は不明である。
明治元年八月、第六十九代法印玉応は、別当住職をやめて神官となり、「神明の感応と奇瑞の現象を永く記念せんが為」(『郷社叶神社史』)姓を感見と改め、感見清(信明)と名乗った。この人をもって、西岸の叶神社の初代神官とし、現住の宮司は第七十五代目(神職宮司六代目)になる。
東西叶神社
元禄5年(1692)、江戸幕府の行政政策により、浦賀は東西の浦賀村に別けられた。
行政区域の分離は、それなりに各々の村意識を生じさせるのであって、総鎮守は西岸に所在していたから、長い間、その氏子として叶神社の御神徳を仰ぎ戴いてきたことにより、東岸にも今まで通り、同じ御神徳をと願う信仰心が分霊祭祀となった。
叶神社が2社あるのは諸説あり、
「三浦郡志」(大正7年)には、「叶神社、当地には叶神社と称する神社2社あり、一つは東岸新井にあり、一つは西岸宮下にあり。共に村社にして応神天皇を祀り、伝えて養和元年僧文覚の勧請とす。記録によれば、叶神社はもと叶明神と称し、西浦賀に在りて浦賀一村の鎮守なりしが、元禄5年浦賀村分村して、東西に二ヵ村となりしより、東浦賀に叶明神を勧請したりと云ふ。
旧幕府時代の地誌は東叶神社を若宮と書せるにても事情察し難からず、西叶神社は歴代の浦賀奉行毎歳春秋二季に幣帛を献ずるを例とせり。」
「新編 相模風土記」巻百二十三には、「東浦賀 叶明神社 正保元年(1645)9月19日。西浦賀の本社を勧請し牛頭天王、船玉明神を合祀す。」とある。
御神宝
古円鏡 文覚上人奉納鏡
銅製にして直径七寸八分余の円形で、表面中央に虚空蔵菩薩の像の陰刻があって、その左右に「天下太平、五穀成就、金剛沙門文覚敬白、文治二年辛丑天春彼岸日」の刻銘が鐫られている。(文治2年は丙午であるので干支が合わない)
この鏡は、文覚上人の大願(源氏再興)が成就し、当社創建の記念に文覚が奉納したもので、慶長九年十二月当社火災の折、灰燼中より無事発見され、当社宝物として所蔵されている。
明治十二年、神奈川県社寺宝物審査官の審査を受け、翌年六月その審査証を附与された。
太刀
長二尺二寸五分 銘神息(本阿弥の鑑定書には神息作風古太刀とある)
扁額 御染筆 圓満院宮筆
宝暦十一年(1761)当社厚く信仰していた氏子に近江国出身で安房国那古(館山市)在住の釜屋平兵衛が知人である、近江国甲賀群夏見村在住の夏見玄内を通じて、叶神社 扁額文字の染筆を圓満院宮に願い出た。
御神号 御染筆 一品有栖川宮熾仁親王
明治十六年六月、氏子一同が熾仁親王に社号御染筆を請願し奉り、宮から、叶神社の由緒等の御下問あって、それに対し委細申し上げたところ御嘉納あって、御承諾の上、御潔斎精進なされ御染筆された由で、同年九月十一日下賜された。
八幡大菩薩神号幡
天保八年、江戸深川八幡別当永代寺兼浄菩堤院家周澄より寄附。寄附状も現存。