安房口神社
御祭神
天太玉命(あめのふとだまのみこと)
祭事
- 3月上旬/春祭・祈年祭
- 3月上旬/例祭・神幸祭
- 11月中旬/秋祭・新嘗祭
- 1月1日/初詣・神札・破魔矢授与
神奈川県横須賀市吉井3丁目11
京急久里浜「JR久里浜」からバス(系統番号 久20)「安房口神社前」下車
安房口神社は吉井・明神山の山頂に鎮座する霊石を御霊代として拝する特殊な形態を持つ神社である。
御神体とする霊石は、安房国(千葉県)鎮座の安房大社の御祭神である天太玉命の霊代として、東国鎮護のために安房国より吉井明神山の山頂に出現飛来したと伝えられる。その巨石の面が安房国を向いているという事から、古来より安房口明神と尊称してきました。
社伝によれば、日本武尊が御東征の折、登山せられて霊石を拝し、東夷征討が速やかに成就されんことを立願せられたという。
又、史家によれば、湘南山手開発前の安房口神社の山麓の道筋は、古東海道の一つであると云われている。鎌倉幕府も大事ある時には、当地の群主三浦義澄を代拝させて奉幣祈願を行ったという。
創立は詳らかでないが、巨石を以てご神体と仰ぎ、社殿を設けず、神社建築史上からいっても原初的な形態をなしていることなどから、古代の鎮座であることは信憑性のあることであり、又古代の信仰形態を現代にまで伝えている珍しい神社でもある。
古代の神道では、大きな石や岩を磐境(いわさか)とか磐座(いわくら)と称し、神の降臨の場所・坐と考へてその前で祭りをしました。
その他、山(神奈備・かんなび)や樹木(神籬・ひもろぎ)を御神体とすることもありました。神道の原点の一つは自然崇拝です。神が宿っていそうな巨岩や、清らかな水を湧き出させる泉、あるいは山そのものに神が宿るという事で神まつりが始まります。
この吉井の鎮守の森(杜)に鎮まります安房口神社は、古代より吉井の里人が大切にしてきた「ふるさとの森」であり、命を育み豊かな自然の恩恵を祈り、感謝する神社です。
日本全国の神社が存在することで森を残し、守り、創ってきたこの森こそ、長い歴史に支えられた鎮守の森であり、世界に誇る日本人の英知であります。今では、「鎮守の森」は国際植生学会などでも世界の公用語になっています。
走水神社
御祭神
日本武尊(やまとたけるのみこと)
弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)
祭事
- 7月/須賀神社例祭(夏季例祭)
- 10月/走水神社例大祭(秋季例大祭)
神奈川県横須賀市走水2-12-5
京浜急行「馬堀海岸駅」から観音崎行きバスに乗り「走水神社」下車。徒歩2分。
御参拝は終日可能ですが、社務所は午前9時~午後3時までとなっています。
御守り、神札をお受けになる方や社務所に御用の方は上記時間に御来社ください。
また走水神社の宮司は叶神社(西岸)と兼務しておりますので、走水神社には常駐しておりません。
御祈祷・御祓い等につきましては叶神社(西岸)にお問い合わせください。
叶神社 TEL 046-841-0179
走水神社のお知らせは公式サイトからご確認いただけます
走水神社は、12代景行天皇の皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)と御后の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)二柱をお祀りしております。
景行天皇即位40年、東国の騒動を静めるため日本武尊にその鎮定を命じました。
勅命を奉じて日本武尊は、伊勢神宮に参詣され戦勝祈願をなし、神宮の斎宮であった叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より神宝の雨叢雲之剣(あめのむらくものつるぎ)と火打袋を授けられ、東国に東征の軍を起こされました。途中、静岡(焼津)において賊にだまされ火攻めの難に遭遇されましたが雨叢雲之剣で草を薙払い向火を放ち形勢を逆転させて賊を討伐したといわれ、これよりこの神宝を草薙之剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれ、以来熱田神宮の御神宝となっております。
日本武尊一行は、焼津、厚木、鎌倉、逗子、葉山を通り走水の地に到着されました。
ここに、御所(御座所)を建てました。(現在の御所が崎といわれています)
走水の地において、軍船等の準備をし上総に出発するときに村人が日本武尊と弟橘媛命を非常に慕いますので、日本武尊は自分の冠を村人に与えました。村人はこの冠を石櫃に納め土中に埋めその上に社を建てました。(走水神社の創建です)
日本武尊は、上総国へ軍船でいっきに渡ろうと船出されましたが、突然強い風が吹き海は荒れ狂い軍船は波にもまれ進むことも戻ることもできず転覆するかの危機に、日本武尊に付き添ってこられた御后の弟橘媛命が「このように海が荒れ狂うのは、海の神の荒ぶる心のなせること、尊様のお命にかえて海に入らせて下さい。」と告げ、「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」と御歌を残し、海中に身を投じられました。たちどころに海は凪ぎ風は静まり日本武尊一行の軍船は水の上を走るように上総国に渡ることが出来ました。以来、水走る走水と言われております。
上総、下総、常陸、日高見の国々の蝦夷を討ち平らげて大和に帰る途中、碓氷峠から遥か東方に光る走水の海の輝きを望み、その海に身を投じ武運を開いてくれた媛を偲び「あ~吾が妻よ」と嘆き呼びかけられたという、そしてこれをもって東国を東(吾妻)「アズマ」と呼ぶようになったといわれております。
奈良時代の初期に編纂された『古事記』『日本書紀』にも記されております。
また、弟橘媛命が御入水されてから数日して海岸に櫛が流れ着きました。村人たちはその櫛を日本武尊と弟橘媛命の御所があった御所が崎に社を建て、櫛を納め橘神社としましたが、明治18年に御所が崎が軍用地になったため、橘神社は走水神社の境内に移され、明治42年に走水神社に合祀されました。
若宮神社
御祭神
大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)
天照大神
大物主命
祭事
- 3月上旬/春祭・祈年祭
- 6月下旬/夏越大祓式
- 7月下旬/例祭・神幸祭
- 11月下旬/秋祭・新嘗祭
- 12月下旬/年越大祓式
神奈川県横須賀市久比里1丁目4-11
京急「京急久里浜駅」またはJR「久里浜駅」より徒歩約7分
享禄4年(1531)6月鎌倉大町なる千葉篤胤の末流、臼井宗左衛門が源氏の由縁依りて、鶴岡八幡宮の若宮神社の御分霊を奉遷し産土神と齋き奉ったのが当社創立の始めである。
久比里(くびり)の地名は相模風土記によると「久比里の鎮守村持神體木立像社の床下に石あり長二尺五寸許土地これを崇敬す石の中くびれたり久比里の地名これより起れり云々」とある。